東日本各地に伝わる「獅子舞」には、それぞれの地域で語り継がれてきた由来があります。
現在でも、五勝手鹿子舞の伝承者は、「南部の杣夫を通じて五勝手に伝わった」と語り継いでいます。
大正12年12月に発行された『江差築港起工式 祝賀会誌』に、五勝手鹿子舞の由来が記されているので、ご紹介します(詠みやすいように一部改変)。
五勝手獅子舞の由来
打つや太鼓の音も面白く
舞の手振もひよふしも唄も
揃う若衆の獅子踊
そも此の獅子踊の濫觴は、今を去ること二百十四年前宝永五戊子、天を磨すてふ檜山繁る樹の間に打ち群う鹿の啼く音も哀れにて、落葉散り敷く秋の末、南部津軽の田舎より、松前藩に傭はれて、五勝手村の山林に、毎年檜の斫伐に従ふ数多の杣夫の内、狩になれたる杣人が、業の休みを幸ひに、弓矢携へ猟にいで、山又山をさまよひて、椴川越に差掛る、
そもそも五勝手鹿子舞の起こりは、宝永5年(1708)の秋、松前藩に雇われて南部地方や津軽地方から五勝手村にやってきて木材伐採をしていた杣夫のうち、休日に狩をしようと山へ入った者が、椴川越えに差し掛かった。
折柄前に鹿の群、小山の丘に現はれたり、偖こそ獲物ござんなれと、打ちもの取つて忍び寄り、矢頃を計り引き絞り打ち放さんと、よく見れば不思議や異様の鹿の色、何か振舞ふ有様に、木の間に潜みて見てあれば、青赤黒白の四頭の鹿、女鹿を囲ふて面白く、遊び廻はれるそのうちに、青赤黒の大鹿は、互に女鹿に戯れて、輸贏を争う如くなり、
その時、鹿の群れが小山のようになった丘に現れた。狩の者は「さあ獲物だ」と弓矢を構えたが、よく見ると、鹿の色が異様で、何か舞っているようにもみえる。
狩の者は、木の間に潜んでさらに見てみると、鹿は全部で5頭いて、青色・赤色・黒色・白色の4頭が、メスの鹿を囲むように遊んでいる。
そのうち、青色・赤色・黒色の鹿が、メス鹿をめぐって争いを始めた。
これを眺めし白鹿は、矢庭に女鹿を打ち連て薮の繁みに隠れしかは、取残されし三頭は狂ひ廻りて尋ぬる様の可笑しくも又哀れなり、暫くありて青鹿は漸く女鹿を尋ね出し、喜び勇んで連れ来り、己が後へに隠すと見し、黒鹿一声猛り立ち、かの青鹿と争ふて遂に女鹿を奪へ取り、己が側に連れ来り意気勗然たる有様を、先の程より側に寝て眺め居たりし赤鹿は、やをら躰を起すや否、物をも言はず黒鹿に角を振り立て突き掛れば、黒鹿負けじと応戦し争う様の物凄く、勝敗更に見えざりしが、遂に赤鹿突き捲られ女鹿を奪へ取られけり
争いをながめていた白色の鹿は、メス鹿を薮の繁みに隠してしまった。
青色・赤色・黒色の3頭は、メス鹿を求めて探し廻っているが、その様はおかしいようでもあり、哀れでもある。
しばらくして、青色の鹿がメス鹿を見つけて、おのれの後ろに隠した。
それを見つけた黒色の鹿は、一声ないて青色の鹿と争い、ついにメス鹿を奪い取って意気揚々としている。
赤色の鹿は、これまでの争いを寝て見ていたが、突然黒色の鹿に角を突き立てた。黒色の鹿も負けじと争ったが、赤色の鹿が勝ってメス鹿を奪い取った。
斯く繰り返し争ふを眺め居たりし白鹿(老鹿又は白サギ称す)は、かくては果てじと仲に入り、荐りに何かささやきしが、平和に局や結びけん、一声高く啼くよと見れは、五頭の鹿は打ち揃へ踊りつ舞へつ角振り立て、何処もとなく消え失せたり
この戦いを眺めていた年老いた白色の鹿は、「これは、いつまで経っても終わらない」と思って仲裁に入り、ついに争いは終わった。
5頭の鹿は、一声高くなき、みなで踊り、舞い、どこへともなく消えてしまった。
余り不思議の有様に、或は驚き、或は感じ、其儘村に立ち帰り、有りし事ども物語るを、村人之を聞き伝へ、斯かる神秘の振舞は神、神楽てうものにやあらん、伝へ聞く、鹿は春日明神の甚く愛養し給ふとぞ、いざさらは神を慰む舞の手を仕組みて祭祀に用ゐんと、鹿の振舞其儘に、くれの舞楽にあらねども、彼の行綱の猿楽や、金砂に名高き田楽を、交へて茲に踊り初め、笛や太鼓に拍子を合せ、舞ふや目出度き獅子の曲、これこの舞楽の由来にて祭祀祝賀に舞ひ奏で、悪魔を掃ひ福招ぎ、国家安泰、五穀成就、海上安全、豊漁万作、君万歳を寿きて、神に捧ぐる獅子舞は奉行も出座し給ひしこと古記に識して明らかなり
狩の者は、この不思議な有様を村人に伝えた。
村人は、「そのような神秘の出来事は、神楽だろう。鹿は春日明神が大切にしているものだという。その鹿の振舞いに、猿楽や田楽の踊りを交え、笛や太鼓を合わせて踊ることにしよう」といった。
これが、五勝手鹿子舞の由来だ。
因 五勝手村字椴川越鹿の獅子踊場と称する岡には未だに草木繁茂せず、清らかなる芝生畳の如し
起工式に因みたる祝賀の音頭の一節を終りに記して参考に供す
ハア 万代の 礎築く防波堤
今日ぞ祝いの起工式 波も静かに気も晴れ晴れと
沖の鴎島見渡せば 出船入船にぎはしく
幾代栄えゆくコノ江差港
江差町 五勝手鹿踊保存会