明治元年11月15日(西暦だと1868年12月28日)、旧幕府軍の軍艦開陽丸が江差沖で座礁し、数日後に沈没しました。
その原因は、この地域特有の冬の暴風(江差では「タバ風」という)によって船が漂流したことによると考えられています。
箱館戦争について書き記した「雨窓紀聞」という有名な資料にも、次のように記されています。
夕六つ時ごろより風暴く雪また烈しくして、咫石を弁ぜず、夜に入り風ますます凛烈、この時にあたり、艦中おこたりなく蒸気を貯え居たりしに、夜十時ごろに至り、碇保つあたわず、蒸気の力も暴風のためにその効あらずして、一瞬間に岸近くに吹き付けられ、ついに浅洲に乗り上げたり、この海底暗礁多くして、ふたたび乗り出すあたわず、これに加うるに、連日の暴風激浪にて、榎本はじめ船にあるもの上陸するを得ず、ようやく第三日に至りいささか風の凪間を計り、わずかに兵器を携え、岸に達するを得る、後十余日を経、風波のために全艦ことごとく破壊す(「雨窓紀聞」 読み下し)
ところが、地元の人々による資料によると、暴風のことが記されていないものが多いのです。
賊船は島沖廻り、澗口へ入り込み、ついに島内姥神宮下の春鰊場漁業の二番繰り場所まで乗り入れ、岩と岩との間へはさみ、少しも動けぬ様に相成り候、しかるところ十五日の夜より十六日朝六つ時まで、右の海用丸澗外へ繰り出さんがために鉋発いたし候えども、なおなお動かず、いよいよ破船と相成り候(藤枝家文書28-58 読み下し)
上記の資料は、姥神大神宮の神職だったと思われる藤枝延之によって記された「慶応四戊辰年十月下蝦夷地モロラント云処ニ賊軍参来事 同明治二己巳年四月九日乙部村ヨリ官軍御上陸ニて賊等不残退散箱館ニて賊軍降参事」という記録で、明治元年における旧幕府軍の蝦夷地上陸から、明治2年の新政府軍勝利と戦後処理について記されています。
この資料では、開陽丸が自走しながら江差の澗に入り込んで動けなくなってしまったように記されています。
ところがこの開陽丸が澗に入る時、どうしたものか座礁してしまったのが笠山稲荷のやったことだというのです、それは島を廻って澗の方に入れる時に、陸から磯舟へ乗って案内した人があったのですが、ずうっと入れて四尋半のところまで入ったかと思うと、もう後にも先にも出られない磐の上に乗り上げていたのです、牧野という人が水先案内をすることになっていたのに、誰かがやって座礁さしたもので、後で随分その犯人を厳探したが、ついに不明で、これはてっきり笠山さんの仕業だろうという事になっているのです。榎本さん達はこの軍艦で松前の殿様を生捕りにしようと思って来たので、笠山さんが殿様を助けて下さったのです。ともかく今日までもなお、この怪しい水先案内者が判らないのです。(「北海タイムス」 昭和8年〓月〓日付 適宜句読点を挿入)
上記の資料は、「北海タイムス」という新聞に連載されていた「江差懐古座談会」からの引用で、談者は明治元年当時13才の方です。
この方によると、当日の天気は「ヤマセが吹いて居て濡雪の日」(「ヤマセ」は「タバ風」と反対向きの風)だったそうで、開陽丸の水先案内をした人が開陽丸を座礁させたというような内容です。この方も暴風のことには触れていません。
これだけでは、開陽丸の座礁原因をはっきり断定することはできませんが、資料によって記され方がこのように違うのは興味深いですね。